経営会議
また新しい週が始まる月曜日。
サラリーマン時代は憂鬱な曜日だった月曜日が、自分の会社を経営している今は、一番楽しみの多い曜日になった。
毎週月曜日は全社員が集まる日になっている。
朝8時15分から全員での事務所中の掃除タイムだ。
8時30分から11時までみっちりと全員での“経営会議”。
この掃除タイムと経営会議。そして月一度のビールミーティングを軸にマングローブの風土は作られている。
週一回の全員での掃除には強い思い入れがある。
サラリーマン時代は憂鬱な曜日だった月曜日が、自分の会社を経営している今は、一番楽しみの多い曜日になった。
毎週月曜日は全社員が集まる日になっている。
朝8時15分から全員での事務所中の掃除タイムだ。
8時30分から11時までみっちりと全員での“経営会議”。
この掃除タイムと経営会議。そして月一度のビールミーティングを軸にマングローブの風土は作られている。
週一回の全員での掃除には強い思い入れがある。
パワハラ
このごろ寝不足が続き、機嫌と体調がいいとは言えない日々が続いている。
実はいくつかの新しいどでかいプロジェクトに押しつぶされそうになっている。
自分の実力を時々疑うことがある。
どうしてこうも自分のキャパシティーは狭いのだろう。
その憤りを人にぶつけることだけはしてはいけない、と言い聞かせる。
この7年間を振り返って、最もつらく胸を痛めてきたことは何かと聞かれたら、迷わず“人との別れ”である。
実はいくつかの新しいどでかいプロジェクトに押しつぶされそうになっている。
自分の実力を時々疑うことがある。
どうしてこうも自分のキャパシティーは狭いのだろう。
その憤りを人にぶつけることだけはしてはいけない、と言い聞かせる。
この7年間を振り返って、最もつらく胸を痛めてきたことは何かと聞かれたら、迷わず“人との別れ”である。
Cooの1歳の誕生日
僕の誕生日の17日木曜日の当日が会社や友人会社の皆さんとのパーティーで土曜日曜も仕事だったので、我が家でのパーティーは日曜日20日の夜にした。
我が家で飼っているチワワのCoo(クー)は21日が誕生日で一緒に祝うことにした。
我が家で飼っているチワワのCoo(クー)は21日が誕生日で一緒に祝うことにした。
父への思い
誕生パーティーに父が書と手紙を寄せてくれたことのうれしさが、一夜明けてさらに込み上げて来た。
父のことを改めて思い起こしていた。
「自分探し」とか「自分のやりたいことを探す」という言い方をよくする。自分をよく理解して、やりたいことをやっていくことが成功の条件である。そして幸せの条件である、と。。
そんな話題の時に僕は、父のことを思い出す。

父は二人目の父だ。
僕が6歳の時に死んだ父は今の父の兄である。
小さかった僕だが、父と母の結婚式のことを忘れることができない。
実家の大広間で、近所の人達に集まってもらっての祝言が行われた。
母と並んで座っていた父はずっと下を向いていて、畳が涙で濡れていたのだ。
子供心にも、それはうれし涙ではないように感じていた。
父は30歳そこそこで、まだ実家にいた。
祖父は昔ながらの頑固おやじで、有無を言わせず母の再婚を決めた。
母と男ばかり5人の子供の生活が急に父の双肩にのしかかった。
(祖父母も健在だったので、正確には一家9人の生活だ)
僕の中に、父が愚痴を言ったり僕ら子供にあたったり、という記憶はない。
怒られたこともほとんどないのだ。
黙々と働いているのが父の記憶である。
請われれば民生委員や、農業指導員などの地域の役を二つ返事でこなし、地元の郷土芸能の復興に尽力し、貢献して来た父である。
そういう時代だったのだ、と言えばそれまでであるが、父の生き方の中に僕は「“自分が何をしたいか”ではなく“どれだけ人にために生きられるか”」「頼まれごとにどれだけ応えて生きて行くか」という姿勢を感じていた。
父の生き方が自分に与えた影響は大きい。
父に「本当は何をしたかったの」と聞きたい気持ちがあったが、その質問はもう封印した。

誕生日パーティーに向けて父は、「翔」という言葉以外にもいくつかの言葉を送って来た。
パーティーの場でその書も一緒にプレゼントされた。
「大望成授(たいぼうじょうじゅ)」成就ではなく“成授”。大きな望みの成就は、自分一人の力ではない。
天からの授かりものと思って謙虚に進め。
父の生き様の感じられる言葉だ。
父の還暦の時に、兄弟5人とその家族から感謝状と記念品(鞄)を贈った。
感謝状は表彰状一杯に小さな字でびっしり埋まるほど感謝の思いのこもったものになった。
貧乏暮らしの中で男ばかり5人の兄弟を育ててくれた父と母の苦労はどんなものだったろうか。
還暦の当時僕はまだリクルートコスモスの人事部で仕事をしていたが、その感謝状はやはり人事部で一緒だった現マングローブ取締役の高瀬君が書いてくれた。
達筆な高瀬君の文字は今も実家の居間に大切に飾ってある。
「“自分が何をしたいか”ではなく“どれだけ人のために生きられるか”」
「頼まれごとにどれだけ応えて生きて行くか」
そんな父の生き方が僕にできるだろうか。
どんな境遇の中でも愚痴を言ったり人にあたったりしない生き方ができるだろうか。
きっと一生追いつけないのだろう。
父のことを改めて思い起こしていた。
「自分探し」とか「自分のやりたいことを探す」という言い方をよくする。自分をよく理解して、やりたいことをやっていくことが成功の条件である。そして幸せの条件である、と。。
そんな話題の時に僕は、父のことを思い出す。

父は二人目の父だ。
僕が6歳の時に死んだ父は今の父の兄である。
小さかった僕だが、父と母の結婚式のことを忘れることができない。
実家の大広間で、近所の人達に集まってもらっての祝言が行われた。
母と並んで座っていた父はずっと下を向いていて、畳が涙で濡れていたのだ。
子供心にも、それはうれし涙ではないように感じていた。
父は30歳そこそこで、まだ実家にいた。
祖父は昔ながらの頑固おやじで、有無を言わせず母の再婚を決めた。
母と男ばかり5人の子供の生活が急に父の双肩にのしかかった。
(祖父母も健在だったので、正確には一家9人の生活だ)
僕の中に、父が愚痴を言ったり僕ら子供にあたったり、という記憶はない。
怒られたこともほとんどないのだ。
黙々と働いているのが父の記憶である。
請われれば民生委員や、農業指導員などの地域の役を二つ返事でこなし、地元の郷土芸能の復興に尽力し、貢献して来た父である。
そういう時代だったのだ、と言えばそれまでであるが、父の生き方の中に僕は「“自分が何をしたいか”ではなく“どれだけ人にために生きられるか”」「頼まれごとにどれだけ応えて生きて行くか」という姿勢を感じていた。
父の生き方が自分に与えた影響は大きい。
父に「本当は何をしたかったの」と聞きたい気持ちがあったが、その質問はもう封印した。

誕生日パーティーに向けて父は、「翔」という言葉以外にもいくつかの言葉を送って来た。
パーティーの場でその書も一緒にプレゼントされた。
「大望成授(たいぼうじょうじゅ)」成就ではなく“成授”。大きな望みの成就は、自分一人の力ではない。
天からの授かりものと思って謙虚に進め。
父の生き様の感じられる言葉だ。
父の還暦の時に、兄弟5人とその家族から感謝状と記念品(鞄)を贈った。
感謝状は表彰状一杯に小さな字でびっしり埋まるほど感謝の思いのこもったものになった。
貧乏暮らしの中で男ばかり5人の兄弟を育ててくれた父と母の苦労はどんなものだったろうか。
還暦の当時僕はまだリクルートコスモスの人事部で仕事をしていたが、その感謝状はやはり人事部で一緒だった現マングローブ取締役の高瀬君が書いてくれた。
達筆な高瀬君の文字は今も実家の居間に大切に飾ってある。
「“自分が何をしたいか”ではなく“どれだけ人のために生きられるか”」
「頼まれごとにどれだけ応えて生きて行くか」
そんな父の生き方が僕にできるだろうか。
どんな境遇の中でも愚痴を言ったり人にあたったりしない生き方ができるだろうか。
きっと一生追いつけないのだろう。
サプライズな誕生日
TV・新聞のない生活
我が家にはテレビがない。見ないのではなく「持っていない」のである。
そして、新聞を購読していない。一紙もだ。
そうすることにしたのはある日の家族会議からだった。
【突然に・・】
あれはいつのことだったか、いつもの家族会議で「テレビを捨てよう。新聞を取るのをやめよう」という話題になった。
親がテレビを見るのを諌めて、子供が文句を言うものと相場は決まっているが、我が家では子供が主導で提案した。
テレビを見たくないらしいのだ。ラジオも嫌い。
雑音のない中で絵を描いたり本を読んだり雑誌を見たりするのが何よりも好きな娘である。
僕はそれまで人一倍のテレビ好きだった。
ご飯を食べる時はもちろん、家で原稿書くなどの仕事をする時も、ひどい時は読書しながらテレビを見ていたこともある。
新聞も数紙取っていて全部に目を通し、ご丁寧に仕事関連の記事のクリッピングまで自分でやっていた。
さすがにそれは手が回らなくなり、専門の会社にお願いすることにした。(それも近年廃止した)
そして、新聞を購読していない。一紙もだ。
そうすることにしたのはある日の家族会議からだった。
【突然に・・】
あれはいつのことだったか、いつもの家族会議で「テレビを捨てよう。新聞を取るのをやめよう」という話題になった。
親がテレビを見るのを諌めて、子供が文句を言うものと相場は決まっているが、我が家では子供が主導で提案した。
テレビを見たくないらしいのだ。ラジオも嫌い。
雑音のない中で絵を描いたり本を読んだり雑誌を見たりするのが何よりも好きな娘である。
僕はそれまで人一倍のテレビ好きだった。
ご飯を食べる時はもちろん、家で原稿書くなどの仕事をする時も、ひどい時は読書しながらテレビを見ていたこともある。
新聞も数紙取っていて全部に目を通し、ご丁寧に仕事関連の記事のクリッピングまで自分でやっていた。
さすがにそれは手が回らなくなり、専門の会社にお願いすることにした。(それも近年廃止した)
母への思い
懇意にさせていただいている某社の会長さんから、「母への思い」という書籍を出すので寄稿してほしいと依頼されて原稿を書き始めた。
今でも目をつぶればまぶたの奥に母の笑顔が鮮明に浮かんでくる。
昨年の5月の末に他界した直後は実感が湧かなかったが、この頃折に触れて思い出すことがある。
生きていて遠くにいるより、逝ってしまった今の方がずっと身近に感じ、思い出されるのはなんとも不思議な感覚だ。
2年ほど入退院を繰り返した末のことだったので心の準備ができていたからか、思ったよりもショックを感じていなかった僕だったが、8ヶ月が経った今になって、しみじみと寂しさがこみ上げてきている。
【帰るところ】
誰にとってもそうなのだろう、子どもに対しては心配性な母だった。
いつもこれ以上ないというぐらいボクのことを心配してくれた。
とりわけリクルートに入る時、リクルート事件の対応で苦労していた時、独立を決めた時。マングローブ設立後の経営もずっと安心はしてくれなかった。
今でも目をつぶればまぶたの奥に母の笑顔が鮮明に浮かんでくる。
昨年の5月の末に他界した直後は実感が湧かなかったが、この頃折に触れて思い出すことがある。
生きていて遠くにいるより、逝ってしまった今の方がずっと身近に感じ、思い出されるのはなんとも不思議な感覚だ。
2年ほど入退院を繰り返した末のことだったので心の準備ができていたからか、思ったよりもショックを感じていなかった僕だったが、8ヶ月が経った今になって、しみじみと寂しさがこみ上げてきている。
【帰るところ】
誰にとってもそうなのだろう、子どもに対しては心配性な母だった。
いつもこれ以上ないというぐらいボクのことを心配してくれた。
とりわけリクルートに入る時、リクルート事件の対応で苦労していた時、独立を決めた時。マングローブ設立後の経営もずっと安心はしてくれなかった。
30周年を祝うパーティー

「事務局メンバーとの打ち上げ」
【意識の変化】
「元いた会社に感謝する」
これもこじつけのようだが、自分にとっては先祖に感謝するに近い感覚なのだ。
独立して7年。先輩社長の会社の間借り、たった一人の貸し机からスタートした会社も、まがりなりにも企業の体をなし、いい仕事ができる会社と評価をいただけるようになってきた。
独立した時には、「俺は俺の道を行く」というような突っ張ったところがあったように思う。
2年目まで大赤字でもがいた。4人社員がいるのに預金通帳が12万円になった時には、出直しも真剣に考えた。
その後色々な人のお力添えをいただいてきて、多くの仲間たちに加わってもらえて、自分の弱いところを補ってもらっているうちに自分は一人では何もできないのだ、人に支えられている、生かされているのだという意識を持つようになっていった。
それと共に、今の自分があるのは、在籍していたリクルート、そしてリクルートコスモスで鍛えていただいたおかげであると素直に思えるようになった。
毎朝の習慣
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